子どもの”遊び”を保障する
子どもの”遊び”ってどんなものでしょう?
幼稚園や保育園では
たくさん子どもを”遊ばせて”くれます。
歌やお遊戯
たくさんのおもちゃ
鬼ごっこやかくれんぼ
お絵描きに工作
魅力的なコンテンツが
いつも眼の前に拡げられて
子どもはたくさん”遊ばされて”いる。
それも楽しいものだけど
大人の用意したものだけが
子どもにとっての”遊び”ではありません。
ある保育園での出来事。 園庭の片隅で一人砂いじりを遊んでいた子を見て、先生はみんなでやっている大縄跳びに誘いました。 するとその子は「先生、この大縄跳びが終わったら、遊んでいい?」と言ったそうです。
大人から見ればその子は何もしていない=遊んでいないと見えてしまったのでしょう。
でもその子にとっては。砂いじりは大事な遊びだったのです。
そのとき誘われた大縄跳びに魅力を感じたら”遊び”として加わったかもしれません。
でもその時のその子の関心は”砂いじり”
大縄とびは誘われたからしようと思っただけ。
遊びではなかったのです。
小さい頃のことを想い出してみて下さい。
ただただ水たまりの水をかきまぜて
どろが渦をまくのを眺めていたこと
砂の上に線を描いて
ただひたすらにその上をなぞって歩いたこと
カップに砂を汲んで
別のカップに注いでを繰り返したこと
そこには何かをつくる、とか
何かをやるために、とか
何かができるようになるために、とか
目的はなかったはずです。
目的=未来のために
子どもは動いていません。
ただひたすらに目の前の今を楽しんでいます。
ひたすらに落ち葉を運ぶ
大人の眼には何にもしていないように見えても
子どもは心の底から”遊んで”いるのかもしれません。
そのキラキラした時間を
保障してあげたいなぁと思うのです。
大人の用意した遊びに加わらないことがあっても
その子はその時、他にしたいことがあって
それはその子にとっての”遊び”の時間かもしれません。
だからその子が夢中になって何かに取り組んでいるときは
それをそっと守ってあげることが
その子の「育ちの芽」に
栄養がぐんぐんいきわたるんじゃないかなぁと思うのです。
森のようちえんでは
大人が何かを用意して
遊びに誘うこともありますが
子どもが乗ってくればやるし
その気にならなければやらないし
その時子どもが何かに夢中になっているときは
そっと見守るだけ。
”遊ばせる”ことはしなくていい
子どもは常に”遊び”に没頭しているし
”遊び”を生み出す天才だから
大人はただそれを守ってやればいいと
思っています。
そんな場を創りたいと
いつも心がけていたいと思っています。